昭和45年10月7日  朝の御理解


X御理解第94節
信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。

御理解第95節
世には神を売って食う者が多いが、此方は金銭では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。


 御教というのはやはり深さ、広さというものは、私共の信心によってそれをその深さ、広さを頂いていくわけです。浅く頂く人もありゃ、それを深く頂く人もある。
 これは例えば御本部参拝でもそうです。旅費なら旅費と言うのは、例えば五千円、これはもう金を持っとろうが持っとるまいが誰だって五千円だけは払うていく、そして御本部参拝をさせてもらう。いわゆる団体参拝なら団体参拝に参加させてもらうのです。 けれどもその頂いて帰るおかげというものは、一人ひとり違うんです。
 例えていうと、お初穂は百円、おみやげは千円と言うような人があります。何の為参った矢らひとつも分からん、御本部御本部というてお参りしながら、お初穂は百円、帰りがけには、さあ秋の大祭でいうと梨も一篭買うた、松茸も一箱買うたという。まるでお土産買いにいったごたる。
 私は今度、御本部参拝から皆さん帰られてから、いろんなお話を聞かせていただいた中に、日田の綾部さんが、先生今度は私共はもう一銭も、小遣いを使いませんでしたと。御本部参拝してから飲み食いに行くのじゃない、お土産買いに行くのじゃない、勿論初めてのお参りです、初めての。おかげで一銭も使いませんでしたと。
 私共も昔からこれは昔から御本部参拝をしても、もう絶対これだけは子供達に饅頭ひとつもかってきた事は一辺もありません、御本部参拝で。私は大体が他の所へ行ってお土産を買ってくると言うことを子供達にしたことがないです。
 もうそれだけに例えば、御本部参拝という事だけに、自分お思いをいうものを於く訳ですよね。お土産はそれこそ船にも車にも積めぬ程のものを、ひとつ頂いて帰りたいと思っておりますから、心に思っておりますから。 折角遠路の所、たくさんな旅費を使うてお参りするのでございますからね。
 例えば九十五節に世には神を売って食う者が多いと、これはいろんな身近な例を取ると、そういう本当に神様を商法にしとる、思われるような神様やら、仏様がやっぱござるとはござるですね。
 けれども金光様の御信心お道はこれはいわゆる立て前ですからね。お供え物とおかげは付き物ではないとおっしゃる。けれどもですね、そこんところが私は教えというものを深く受ける人もありゃぁ、浅くしか受けきらない人もある。
 金光様ちゃ、本当に有り難い、もうお賽銭でん上げんなら上げんでん、ちゃんと拝まれるし、お初穂奉らんでも、先生にお願いをすりゃぁ、お願いすりゃ御神米も下さるし、やっぱり一様にお願いもして下さる。
 これは一様ではないですね。私共の場合はそういう人程ほんなこつなら、そげなこつじゃいかんでしょうけれども、それこそ不同の扱いでしょうけれども、私はかえって念を入れます。だから先生に念を入れて拝んでもらいたいと思うなら、お供えせん方がかえっていいですだから、ほんとですよ。
 けれども問題はどんなに先生が念を入れて取り次ぎをして下さっても、拝んで下さってもです、受ける方の心ですからね、問題は・・・受け心なんですから。 昨日も夕方でした。私はもう居間に下がっとりました、そしたら先生に是非お会いして、お願いしたいと云うてきた人があるから、私は私の部屋から控えに待っとってもらいなさいと言うてから、それから長い廊下を曲がり曲がりここまでに来る間に、一生懸命にやっぱお願いをしてきました。
 どげなお願いかは分からんけれども、どうでもこうでも私にお願いせんならんというのですから、何かせっぱ詰まった願いに違いない。どうでもひとつおかげを受けてもらわんならんと思いますから、又会うてどういう風に、御理解申し上げたり、又はお取次させて頂いたらよいか分からんから、一生懸命お願いして参りましたらね、その方がね、両方の手にいっぱいの包帯をしておられる所を頂いた。こんなにしているところを頂いた。
 はあ、これはいかにおかげを取り次がせて頂いても、これじゃ受けられんなと、私は思うた。 もうちょいとでんさわるなら、痛うしてこたえんという状態、両方の手が。
 お話を聞けば聞くほど、もう本当にそれは大変なお話なのである。まあ深刻なお話なのである。先生どうしたらいいでしょうかと。どうしたらいいでしょうかて、あんた、結局おかげが受けたい訳でしょうけれども、今のような状態ではね、どんなに神様が素晴らしいおかげを下さっても、おかげは受けられませんと。
 例えば十斤のおかげが欲しいというから、十斤のおかげを渡しても、此の両方のてではどうして受けられますか。それよりもね、それよりも、この手の方の傷が癒えることを願うことが先だと、今のあなたの心はもう傷だらけ。重態。だからその事をね願わせてもろうて、おかげを頂きなさい、今あなたが苦しいと、難儀と感じておるその問題は、いうならば苦しかろうけれども、しばらく棚に上げておいて、まず自分の心の傷をいやすことが先ですよと、云うてお話しましたら、非常に元気づいて帰られました。
 お話を聞けば聞くほどもっともだという事なんです。ですから信心はやはり受ける方のね、受けるほう。私はです私はたくさんお金を持ってきたり、ものを持ってきたり、たくさんお供えする人を特別念を入れて拝むという事もないが、これは取り次ぎ者として、当たり前の事ですけれども、どっちかというとむしろお供えならお供えでも出来んなりにお願いをする人の事をを念を入れて私はお取次させてもらう。 それはそれでもいけんのでしょうかね、大体はおなじでなからにゃいけん。
 どうですか、皆さんひとつものでも、自分で本当にそれこそお金は、名々大事なもの、大切なもの、大切なお金を持ってものを買わせてもらう、ただでもろうたと、どちらを大切にしますか。
 ただでもろうたつは、どうしてもお粗末に致します。けれども自分が金を出して買うた物は、やっぱり大事にしなければ、いわば惜しい。おかげを出して買うたんですから。
 お話でも、そうです。いろんな為になる講演なんかは、講演会があるあの点、金光教の生き方の方がかえってまずいなという事がある。どこにどういう偉い先生がみえて、講演会があるというのに入場料を取りませんもんね。
 ところがこれが、天理教とか生長の家がああして講演にみえますと、必ず入場料を取ります。それはねそれは商売だから金を取るとじゃないです。私はそうだと思います。生長の家の場合であっても、天理教の場合であっても。問題は本当にそこに人が助からなければならんからという事に重点がおいてあると思うのです。例えば百円なら百円の入場料出してからでも助かりたいをいうその熱意が違う。いっちょ聞いてみようか、ただじゃけんでというて入った者がおかげの受けられるはずがない。
 だから、これは天理教とか、生長の家の講演会の時に入場料を取られるのは、あれは本当の神心だと思う、本当に助かりたいなら、百円は千円でも出してからでもひとつ、お話を頂いてみろう、そして助かりたいという、それこそお金だしとるから、眠ってども聞いとたっちゃ馬鹿らしいか、やっぱり真剣にそれを頂かせてもらうでしょう。ただで入っとるのは、もうてんで話聞きに来とるのか、居眠りしに来とるのか分からんような頂き方しか出来ません。
 ですから、私はここではね、いわゆる九十四節と九十五節とを読ませていただいたですけども、私は本当にこの言葉のまあいっちょ向こうにある者を、私は私なりに感じた事を感じとらせて頂くことを聞いて頂いてる訳なんです。
 問題は本当に助かってもらわなきゃならん。問題は本当にいわゆる船にも車にも積めぬ程のものを頂いて帰ってもらわなきゃならない。
 私は昨夜、休ませて頂いてから今朝までずーっとそれこそもう大変な御理解でしたが、私が説かせて頂いとって、説かせて頂きながら、いわゆる最近いわれる願いの信心、もう大論説ですね、けさ目が覚める迄でした。
 もうそれはあらゆる角度からしかもね合楽の御信者さんのもう本当に一人一人がですね真剣にお話を聞いて下さってあるということでした。
 しかもですね、これはもう合楽全体が火の玉のようになって願いの信心に立てれるな、これだけの教えを頂いたからと思う程でした。
 もうそれこそあらゆる角度からも、願いということを説かれて、そして目のさめてから、本当に今日はもう寝てから、目が覚めるまでじゃたろうと思うのです。夢の中でよう分からんけれども。
 そして果たしてそんならどういうことじゃったかなぁと思うたら、全然忘れてしまっておる中身は。とにかく素晴らしい事だった。お夢の中に頂く、いわゆるその願いという事を焦点に、中心にしてのもうあらゆる角度から説かせて頂きよる、説きながら何という素晴らしい説き方だろうか、又頂く方の側もこれこそもう本当に合楽に御神縁を頂いておるみんなの人が頂いておるのです。
 しかもみんながです、もう本当にこういうお話を頂くなら、合楽全体が火のようになっていわゆる本当の意味においての願いの信心になっていけれるぞ、大変なことになってきたぞ。これは有り難い事になってきたぞと思うて目がさめた。
 というて今度は目が覚めたら、なあにも残ってなかった。どんなに素晴らしい、いわゆる名説教をと言うたところで頂いておる時だけは、まあ何と素晴らしい、有り難いお話だった、有り難いお話だったと言うてもです。さあ帰りがけに今日の御理解はどういう御理解じゃったのと言うごたる事ではどげんでしょうかね。身にも付かなければいわば血にも肉にもなっていない。
 それでこちらへ、控えに出て参りましてから、一生懸命思い出してみるけれども、素晴らしいことであったというだけで残っていない。それで一生懸命お願いをさせて頂きよりましたら
「坂井」という字を頂いた。だからそういう事だったろうかと。
 そして今日、ここで頂かせて頂きますのが、実を云うと九十四節と九十五節のあい中を頂いたんです今日はだから九十四節と九十五節のあい中。字にはなってないところ、その中味、云うなら九十四節と九十五節の中という事を私は今日は頂くべきだと思わせて頂いて、御理解を二節続けて読ませて頂いたような訳なんです。
 成る程、此の方は神を商法にされるような事はありません。けれどもね、やはり助かってもらう為には入場料をとらなければね。・・
 それはお取り次ぎさせてもらう、ただで入ったっちゃ、云うならお初穂のお供えも出来んなりにお願いすれば、むしろその事を念を入れてむしろ拝みもすりゃ、お取次もさせて頂く。
 いつも例に申しますように、ちょいと先生、今日は久留米まで出らせて頂きよりますけん、よろしくお願いします、と言うてから簡単にお取次を頂いていく人がある訳です。
 勿論、お賽銭もお初穂もせんで、それは勿論朝もお参りしとりますから、ちょいと行きがけに寄ってからお取次を頂いて行くと、こう言う。
 自分はそれでお願いして行っとるつもりじゃから、私もお願いして行って、途中で怪我でもしたりという事があっちゃならんから、もうとりわけやっぱ祈らなければおれない。
 ところがそんなら、金の百円出も、お初穂奉らせて頂いて、只今から久留米へやらせて頂きよりますからと云や「ハイハイ」と私が言うただけで楽なんです、実を云うたら。何故かと云うと本人に受けものが出来とりますますもん、本人に百円がたの受けものが出来とりませんもん、私はそんな風に思います。
 そこで成る程、天理教とか、生長の家で、これは私決して皮肉じゃないです。素晴らしいと思います。入場料を取って講演会を開かれると言うことは。金光教も私はそういう意味あいに於いては、見習わにゃいかん、と思うのです。ただで聞かせたっちゃ、あれは東京の日比野公会堂ですかね、高橋雅子先生の講演会があるところはそういう時にですね、 ○○新聞の記者がその話を聞かせて頂いて、もう金光教の信心の深さに、素晴らしさにたまがったと、こげな話を入場料も取らんで聞かせて、つい何日か前に、××教のやはりお話がそこであった。そん時もそのお話の内容というものは、たいした事なかったと、こう言う、けどもやっぱ入場料取ってあれは入場料取らなければ取らなければかえって助からないだろうと、その新聞記者が言うたというお話があります。
 本当に人が助かる事が出来なければという教祖の御精神の中にです、そういうものがないはずがないのです。実を云うたら・・・・助かる事さえ出来ればというのですから。
 ただじゃけんと思うて、眠り半分で聞いて助かるはずがない、云うならお金入場料出しとるから、やっぱりそれだけがた聞かにゃと云うて、一生懸命なるのですから、問題は助かるというところに、焦点を置かれたらです。そんなら成る程、金光様の信心はお供え、おかげ、又はお金をこがしこ納めなければ、おかげ受けられんという教えでは、決してないのだけれども、助かるという事に焦点を置いたら、やはり出来るだけ入場料も高く、支払わせて頂いたが、おかげという事になるけれども、どうも金光様の御信心の場合、それが折角、御本部参拝させて頂いて、お初穂を百円、お土産ば千円がと、これじゃもうちょいと、それを考えただけでおかげをうけん事が分かります。
 成る程、せめて、まあ、いらん金を使うなら、いらん金使うたがた位の神様へのお供えが出来なければ、もうそれだけでも、真とか、真心とかいう、真も真心もないです。そんな事じゃ。
 お供えが出来んごたるなら本当に、云うなら金一銭でも使うちゃ相すまんという位な修行させて頂いて初めてです、お金は例えば、お供えは出来んでも、おかげを受けるのです。云わば入場料は大した事払う事は、出来なかったけれどもおかげは、船にも車にも積めぬ程のおかげを頂いて帰ることが出来るのです。
 私は今日、頂いた、一晩中頂いたその事の素晴らしいことであったが、何も残ってなかったけれども、一生懸命思いだそうとしても思い出せん、どういう事であったろうかと思いよったら、坂井と頂いたということはです、坂という事は私はやっぱ山坂の坂とおもいました。ですから修行です。
 井というのは、いわゆるおかげだと思うた。井戸の井ですから、お恵みの水を汲み出すという、そういう意味ですから、井戸の井というのはお徳と、おかげという風に私は頂きました。
 いわゆるね、坂というその修行があって初めてです、その修行に伴うだけのおかげが受けられるとですよ、間違いないです。
 ですから、その修行というてですね、云うならば代償を支払わなければいけません、眠うもあろう、きつうもあろう、けれどもそれを修行と思うて、その代償を払わせて頂くからこそ、神様は船にも車にも積めぬ程のおかげを下さるのですよ。おかげじゃないお徳を。 
 又はおかげと云うてもよいでしょう。修行にいわゆるおかげはつきもの、いわゆる徳はつきもの、その徳におかげはつくのだ。場合にはその修行におかげが直接つく場合もありましょう。
 だから修行という代償を支払わずして、おかげを受けようなんて、これはもう甘い甘い私は考え方だと思います。神様は下さる、お取次の先生は修行せんでも、修行という代償を支払ってなくても、やはり、一生懸命願っても下されば、お取次もして下さるんですけれども、もう受けものがないです。それでは。
 ですからその云わば坂という、その修行をいう事にはです、修行というその代償の中には物もありましょう。お金もありましょう、体をもって頭から修行させて頂くという代償の事にもなりましょう。
 この代償なしにです、私共が頂かこうとういうのは、甘い考えである事を知らなければいけません。
 私が昨夜から頂きます、もう本当に素晴らしい、本当に素晴らしいと思いながら、お話しさせて頂いておる、私自身が目が覚めたら、何もかも忘れてしもうとる。
 今日の御理解は素晴らしい素晴らしいと、例えば頂いても聞いておるだけであって、残っていないとするなら、それを今日一日の御用の上に現していこうと思うても、現しようがない。
 そういう修行が出来んなら、おかげの受けられん事は分かっとります。それにはやはり代償を支払っていないから、おろそかにするような事ではなかろうかと私は思う。本当ですよ。
 それはもうひと修行させて頂いて、御本部参拝させて頂いた時に、頂いて帰るのはもう大変に違いますよ。
 今私共は、修行も出来ませんけれどもです、そんなら以前の私のことを思うてみても思うのです。お供えも思うように出来ません。ですから本当にただお参りするだけでは相済まん、せめて修行なっとんしてからと思うて、お参りを致しますから、それこそ、お供えは出来んでも、修行という代償で帰りがけには、がっぱり頂いて帰りよった。
 楽にお参りして楽という事は、楽ということは云うならばそれこそ、飲んだり食うたりの事には血道を上げる。けれどもお供えは百円と、例えば致しましょうかね、これじゃ頂いて帰る受け物はないのです。
 これは日々の参拝だって同じ事が言えるのじゃないでしょうか。余計払うとるなら余計払うとるだけ、やはりそれだけ方頂かにゃ馬鹿らしい。それだけたくさんのお金を支払うたから、おかげ頂くという意味じゃ決してないですよ。
 いわゆる入場料を払うて、講演会の話を聞くと云や、聞く方だってです、入場料払うとるからと思うて、一生懸命聞く、その一生懸命がおかげ頂くのですからね。
 ただじゃから、居眠り半分ででも、何あにも残っとらんでも別に元は入れとらんとじゃから、それでもよい訳ですけれどもおかげが受けられません。
 今日私が頂いた、坂井ということ、修行という代償を払うて初めて、井戸の井につながるのだと。そう云うような事をね、私は今日は、直接この御教えには触れなかったですけれども、この二か条の御理解の中から、そういう内容と云うか、言葉には出しておられない、けれどもそういうものを、私は今日は感じとらせて頂いて、皆さんに聞いて頂いた訳です。            どうぞ